似島汽船株式会社
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似島はバームクーヘン発祥の地です
似島はヒロシマの第二の聖地 平和学習

似島にはいっぱい魅力があるけーきてみんさい
似島にはこんな人たちがおるよ

安芸小富士 似島桟橋 公民館 砂利船 川崎キャンプ場 長浜自然海浜 民宿高見亭 山田荘 下高山 似島小学校 似島中学校 原爆犠牲者慰霊碑 似島臨海少年自然の家 養老館 展望台 似島臨海公園 平和の散歩路 学園桟橋 似島学園

公民館

公民館(財)広島市ひと・まちネットワーク 似島公民館
公民館は、似島の新しいシンボルとなった合同庁舎内にあります。フェリーが湾内に入るとすぐに目を引く緑青銅板葺き屋根の庁舎は、平成9年9月に完成し11月から業務を開始した。
庁舎内には、南区役所出張所・水上消防署出張所・コミュニティー消防センター・集会所・診療所に加え、新たに公民館を併設され、似島のコミュニティーの拠点となった。  公民館には、479平米多目的ホールの他、研修室・会議室・児童室・実習室・図書室・和室があり、様々なテーマの各種学級、講座などの公民館主催事業を始め、趣味・教養などの自主的なグループ活動や、子ども会・庁内活動に利用できるようになっています。
乗り物…バス、タクシーは走っていません。
似島は信号のない島です。道路も非常に狭く見通しの悪い所が多々あります。自動車で上陸される方は、安全運転でお願いします。

砂利船

砂利船似島の主産業である「砂利船」
通称「砂利船の島」とも呼ばれている似島です。戦後の市内被災地の復興には、建設資材の供給面で大きな貢献もしました。現在、全国第2位(以前1位だった)の保有数を誇り、全国ネットで活躍しています。
砂利船とは海底の砂を掘り取る(つかみ取る)バケツとクレーンを装備した砂利採取運搬船のことです
関空などの埋め立てはもちろん、全国の大規模な埋め立て工事にはほとんどかかわっています。中でも東京湾の沿岸にかかわる工事には木更津を基地として似島の砂利船なしでは工事が進まないほど必要とされ、現在は羽田空港の拡張工事を主に稼動しています。
似島沖は広島地区の工事にたずさわる砂利船の停泊場所となっています。

川崎キャンプ場

川崎キャンプ場似島桟橋から歩いて約15分のペンションの隣にあります。
長浜のほぽ中央に位置し、藤棚が目印。簡易トイレ、水道、電気(申込必要)もあるので、貝掘りや海水浴などの休憩場所として利用すれば安くて便利。
予約の連絡がつきにくい場合はフェリーの船員に使用料を預けておけば利用できます。

長浜自然海浜

長浜自然海浜似島で一番大きい「浜」が長浜です。
延長約500mの浜にはペンションやキャンプ場などもあり、夏場は海水浴や海洋スポーツの基地としても多く利用されています。
ただし、浜辺を特別整備しているわけではないので、あくまでも自然海浜としてご利用下さい。

民宿高見亭

民宿高見亭「鯛の姿造り」をはじめとした瀬戸内料理が自慢で、女将の飛び入り芸が楽しい宿。
新館のオープンと同時に展望岩風呂、カラオケのある大宴会場を新設。身障者用の設備も整っており、気楽な昼食会や忘年会等にご利用ください。

山田荘

山田荘似島の南の入江にあって、似島では唯一海にせり出しているペンション風の「山田荘」。
満潮になればテラスから釣りが楽しめる他、ウオーターフロント気分でテラスでバーベキューもできるよう、道具も用意してあります。
山田荘は貸し荘として素泊まりはもちろんOKですが、やっぱり瀬戸内料理が食べたいという方には普通の民宿と同じように1泊2食付き又は昼食のみという注文にもお応えできるようなシステムとなっています。
利用については、家下の山田商店にお問合せください。

似島小学校

似島小学校恵まれた自然の中で人間性、自然を愛する心、他人を思いやる心などを養うとともに、小規模校の特製を生かし、きめ細やかな指導を通して、確かな学力の向上を努めています。
似島の学校教育の沿革は明治8年にさかのぽる。この年に「至誠舎」という塾が開かれて、住民子弟に寺小屋風の教育を施したと伝えられる。
現在の似島小学校の前身である。家下部落にあって、一時は説教所の一隅(ぐう)を教場としたり、宇品小学校の分教場とされたこともあったが、明治35年3月に似島尋常小学校として独立が認められた。
当時の児童数は80人で、その後、大正11年には在籍207人を数え、すでに当時から子弟教育への強い熱意が抱かれていた事実がうかがえる。
在籍児童数は、昭和10年の300人に対し、昭和□年には最多数の404人を記録した。その後、徐々に減少傾向をたどり、昭和43年以降は300人未満となり、平成9年4月現在では42人と、明治35年当時を下回る児童数となった。
平成10年4月より「いきいき体験オープンスクール」を開始し、地元小学生との合同の学校となった。
昭和22年4月に似島小学校と名称を変え、昭和24年7月に家下から大黄に新築移転した。現在の鉄筋校舎は、昭和58年に完成している。
最近までは、体育、とりわけバレーボールやサッカーが活発で、しばしば県内大会で優勝するなど、似島住民の期待に応えていた。しかし、過疎化と少子化による急激な児童数の減少により、平成3年度から1学年と2学年が複式学級となり、平成7年度には1・2学年が単級、3・4学年、5・6学年は複式学級という、4学級編成の小規模学校になった。
また、クラプ活動ではバレー・サッカー都も廃都となり、代わってバスケットボール都が発足したが、今後の児童数の減少によっては長期間の活動は望めない。現在のところ卒業児童のほとんどは、似島中学校に入学している。

似島中学校

似島中学校似島中学校は恵まれた自然環境を生かし体験活動を取り入れた、広島市教育委員会の「いきいき体験オープンスクール」の実施校として、学区を越えた島外の生徒も受け入れ、新たな教育活動も実施されています。似島の南東部に位置し、周囲を海と山に囲まれ、素晴らしい自然環境に恵まれた、広島市で最も小規模な中学校です。
中学校は、昭和22年4月に広島市立第四中学校の分校として、家下部落内の小学校の校舎を借り住居として開校された。開校当初の入学生徒は21人であった。昭和22年9月1日、似島分校は大黄所在の元陸軍馬匹検疫所内に仮移転したが、教室にあてられたのは、検疫所時代に使用された事務室・倉庫・馬小屋で、とても教室として使えるような建物ではな<、至る所が破損していて、応急修理を施し教室として利用した。
分校時代の教職員は、昭和22年度が学校長以下2人、昭和23年度は5人であった。そして昭和24年4月、似島中学校として独立したものの、教室は以前と同じ馬小屋教室であった。
昭和24年7月、小学校の新校舎が完成移転したのをきっかけに、小学校の旧校舎5教室を借用し移転した。この当時、職員室や保健室は小・中合同で使用、しかも校長も小・中兼務であり、その兼務時代は実に昭和35年3月末まで続いた。
昭和26年12月、木造2階建ての校舎が完成し、昭和43年までに鉄筋2階建の建物に改築された。在籍生徒数は、独立した昭和24年度は128人であった。以後少しずつ増え、最多数を記録したのは昭和37年度に181人を数えた。その後少しずつ減少して、昭和60年度にはIOO人を切って85人となり、平成9年4月1日現在では22人と、開校当時とほぽ同数の生徒数となった。広島県教育委員会から、昭和26年度生産教育指定校、昭和40年度美術科教育推進校、昭和45年度生徒指導教育研究校の指定を受けた。また、文部省からは、昭和40年度学校保健統計調査実施校、昭和50年度生徒指導研究推進校に選定されている。
生徒数の多かった当時は、スポーツクラブの活躍も目覚ましく、サッカー・テニス・バレーボール競技では、しばしば県内対抗試合で優勝していた。とりわけサッカークラブの活躍は目覚ましく、昭和45年に行われた第1回全国中学校サッカー大会では、準優勝を成し遂げ、似島中学校の名声を広島県のみならず全国に広めたのである。その後もしばしば全国大会に出場し、似島サッカーの健在を誇っていた。また、文化クラブにおいては、吹奏楽クラブが毎年広島県吹奏楽コンクールに出場し、金賞や銀賞を受賞する好成績を挙げていた。しかし、生徒数の減少により、似島の誇りであったサッカー部も、平成7年9月には休部となり、代わって硬式テニス部が発足した。最近の急激な過疎化・少子化による児童・生徒の減少は、教育・スポーツ活動にも支障をきたし、似島住民はその危機感を隠しきれない。

原爆犠牲者慰霊碑

原爆犠牲者慰霊碑似島は日清戦争から太平洋戦争終結まで「軍の島」でした。
そして、広島市に原爆が投下された直後から、似島の検疫所には約1万人の被爆者が運び込まれたと言われています。しかし、多くの人が介護の甲斐もなく亡くなり、火葬又は土葬され、中学校東よりの南風泊(まじどまり)一帯に無縁仏(千人塚)となっていました。
昭和22年、この辺りから約1,500人余の遺骨が発掘され似島供養塔が建てられました。この遺骨は昭和30年、平和記念公園の供養塔に合祀されましたが、後の昭和46年には、中学校グランドから約5口入の遺骨が発掘されました。この慰霊碑は、これら原爆犠牲者のご冥福を祈って昭和47年に建てられたものです。

・平成16年、島民の証言により、元馬匹検疫所跡地の発掘調査が行われました。
・5月から7月までの発掘により、推定85体の遺骨と65個の遺品が見つかりました。
・発掘された場所は写真の慰霊碑の裏あたり一帯です
・8月2日に慰霊祭が行われ、遺骨は平和祈念公園供養塔に合祀されました。今も尚来島者が訪れ手を合わす人が絶えません。

似島臨海少年自然の家

似島臨海少年自然の家自然の中で小・中学生に家庭や学校では得がたい生活を体験させる施設。テニスコート、野営施設などが整備されているほか、海水による多目的流水プールには60mのウォータースライダーも設置されています。また、プールは水泳シーズン以外はカヌーの初心者用練習コースとしても利用できるようになっています。春から夏にかけての利用が特に多く、早めの予約が必要です。最近では平和学習の基地としても広く利用されています。

養老館

養老館海と山に囲まれた自然環境で、市内でも人気のある養老館です。
平成元年に新館となり、全戸室のモダンな建物になりました(養護老人ホーム定員50名)。
平成7年に増館され、特別養護老人ホームとして定員30名を、ショートステイとして定員6名を受け入れられるようになり、同年9月には「デイサービスセンターにのしま」を開始し、島民を始め広く交流も図っています。

展望台

展望台少年自然の家に隣接した臨海公園にある展望台からは遠くは広島港まで見渡せ、安芸小富士(標高278m)へ登る登山口としても利用されています。現在、この登山ルートがもっとも上りやすいと言われています。展望台には子供達に大人気の大型スベリ台(全長27.5m)も設置されており、広さもあるのでちょっとした休憩所にも利用できます。

似島臨海公園

似島臨海公園臨海公園には、少年自然の家・プール・テニスコート・アスレチックエリアなど配置されており、広く整備された公園は1年を通して多目的に利用できる。島内を巡っている時は休憩ポイント、トイレポイントとしても活用できる。

平和の散歩路

平和の散歩路似島はその地理的条件によって、常に広島とかかわってきました。ある時は被害者として弾薬庫を持ち、またある時は戦地からの帰還兵を受け入れ、さらに昭和20年8月6日には人類初の原爆被害者を受け入れました。このように怒りと悲しみの時代を体験したもう一つの「ヒロシマ」がここにあります。その遺跡は、似島学園から慰霊碑にかけての『平和の散歩路』に今なお残され伝えられています。遺跡をめぐることは、二度と戦争を繰り返してはならないという願いを学ぶことでもあります。少し時間をかければ「平和への旅」がはじまります。なお、参考資料として「ふるさと似島」がありますのでフェリー船内でお求めください。

似島学園

似島学園戦後の昭和21年、広島駅前などにたむろする戦災孤児の収容施設として「似島学園」がスタートしました。昭和40年以降は戦災孤児は減り、現在は養護・精神薄弱・アフターケアーなど各施設を設け、心身共に健全な児童の育成を図っています。似島学園小中学校も併設されています。
昭和22年12月7日、天皇陛下がご巡幸になり、「明るく、元気に」というお言葉を賜りました。以来、このお言葉は「園訓」となり現在も受け継がれています。